こんにちは、やまとです。
先日、ジャック・アタリの“食の歴史”を読んで、心に感じる物があったので、その纏めとして“食”に関するテーマで記事を書きます。(珍しく常体で書いています)
コロナウイルスの感染拡大による外出自粛で、自由に外食が出来なくなった今、食について考える良いタイミングだと思います。
本記事を読み、ご自身の食について今一度見直してみてください。
商業化・工業化に伴い加工食品が隆盛
社会は食以外の工業製品の購入を促し、経済をより発展させることを目指した。
そのためには、食をより安く、より早く、済ませる事が求められた。
食に使っていたお金を自動車や衣服、趣味や娯楽のために使ってもらい、経済を発展させようと考えたのだ。
食においては加工食品が隆盛し、安価ですぐに食べられるファストフードが隆盛した。ハンバーガーや加工肉、冷凍食品などが該当する。
これに反して、スーパーマーケットで調理前の野菜や魚を手に取る機会は減り、調理時間や食事に掛ける時間、家族揃って食事をする機会も少なくなっている。
結果的に、食事に対して会話を楽しむことや栄養を補給するなどという目的意識は無くなり、ただ機械的に空腹を満たすことが目的になっているのだ。
個食の一般化
ここ数十年の経済成長により、人々は家族で支え合って生活する必要がなくなり、個人で稼ぎ個人で食べる“個食の一般化”が進んだ。
それは最低限度の生活を1人の力で確保する事ができるようになったからだ。
実際に、多くの若者は大学まで進学し、その後に都心部の企業に就職するとともに一人暮らしを始め、1人で生きて行くケースが多い。
そして家族で食事を取っていたところから、1人で食事を取るように変化して行く。
1人で食事をする時の相手は、専らテレビ番組やNetflix、YouTubeなどディスプレイ上に映るエンタメになっていると推察する。
人との対話よりもディスプレイが提供するエンタメが優先される時代だ。
味や栄養への無頓着さ
先に書いた通りディスプレイに映るエンタメを楽しみながらの個食が増えたことに関連して、“味や栄養への無頓着さ”が加速している。
どんな味の物を食べ、どんな栄養を補給するのか。
これらを考えて食べ物を買い、味や食感を楽しみながらの食事が週に何回あるだろうか。
振り返ってみると、僕自身も映画やドラマに夢中になりながら食事を取り、気がつけば食事を終えていたことが何度もある。
同じ会社に勤める同期に聞いても、似たようなことをしており、食に関して無頓着であった。
これが良いか悪いかは分からないが、“食事”という行為自体の価値が低下し、その他の事柄(ここではディスプレイに映るエンタメ)の価値が相対的に上昇していることは明確だろう。
資本主義の構造に取り込まれる食
これまでに書いてきたことを振り返ると、個人の食事は資本主義の歯車になりつつあると感じる。
1人孤独にディスプレイを見ながら、工業生産された加工食品を無感情に食べ、空腹を満たす。
そこには、食を通した喜びや楽しみ、感動は無くなり、一つの作業を満たすための動作に成り下がった食事がある。
効率的に空腹を満たし、仕事など他の活動に移れることが食に求められることであり、そこには食が肉体や精神を構成する要素だという感覚は殆ど無い。
仕事をし、低価格・低品質の食品を食べ、再び仕事に戻る。
この繰り返しをしている労働者は、資本主義を構成する歯車でしかない。
もっと人間らしく、人の会話や協力、自然との共生など、真に洗練された効率の良いライフスタイルを実現することは出来ないのだろうか。
非効率な食事が実は洗練された食事になり得る
先に、工業的側面から捉えた効率的重視の食について書いた。
ここでは、その観点からは非効率であろう食が洗練された食事になり得ることについて、僕の理想を交えて書いていく。
確かにオートメーション化された製造工程は、食を効率的に広く提供することが出来るという点では非常に優れたシステムである。
しかし、大量の肥料の活用で土壌が痩せたり、水質が悪化するなどの環境的なバランスが崩れるリスクがある。
このようなリスクを考えると、古典的な食生活が洗練された理想的な生産システムなのではないかと思う。
近所の農家が米を食べ、味噌を自分で作り、家庭菜園により野菜を調達する。
また、釣りや山菜狩りに出掛け自然から食べ物を得る。
そして、野菜の芯や魚の骨、残飯などは土に返す。
徒歩や自転車で行ける範囲内で食を構成する、自然と一体化したスタイルを形成することが理想的な食生活の実現に繋がると考える。
飲食店やコンビニ、スーパーマーケットの休業などライフラインのストップに影響を受けない、小規模で自立型のシステムを構築することが真に洗練された食事に繋がるだろう。
僕は、そんな生活スタイルを目指して行きたいと思う。
それではまた!